突然だけど、人権救済を訴えようと思う。
聞き入れてもらえるかは分かりませんが。
ブログをお休みしてる間に様々なことがありました。
先ずは僻地に住んでいたので派遣されていた医師の派遣期間が終わってしまったので引っ越しを余儀なくされたこと
ハンデのある息子の精神状態からして新天地への引っ越しは出来ないこと
から以前に住んでいた京都に出戻ることになり今年の1月に転居しました。
思えば、そこから酷い迫害が始まりました。
以前、住んでいたし京都とは言え田舎なので役場であっても顔見知り立ったので気安い関係だったんです。
私が病気になって進行していく過程も見ているし知っています。
その上で出来ること、を自ら走り回ってくれていたような方々だったのですが戻って来たら、そうじゃなくなっていたんです。
他県に行ってからの約2年近くの間に何があったかは分かりません。
人事が変わると言っても役場の中で再編成があるぐらいの所です。
なので戻って来たら拒絶される理由も分からず戸惑いながらも私達親子が生きていくために交渉に交渉を重ねて来ましたが役場は一貫して私達親子を離すこと、つまり子供達を施設に入れること、が大前提で私に子供達を手放すことを再三、迫って来ています。
実は、あれから下の子、次男に長男より重い障害があることが分かりました。
ADHDと発達障害などが複雑に絡み合った複合的な障害です。
病気が一つではないので断定した病名もなく人に説明する時は周知されている病名を伝えます。
役場が、ここまで言って来る要因の一つは、そこなのだとも感じてはいます。
障害を持った親に障害児が2人
まぁ先ず無理ですよね、私でもそうは思います。
なので役場の思いを分からなくはないけれど、でも「子供達を取り上げるのは最終手段」でしょ?と言いたいのです。
確かに次男のハンデが分かった時は私も無理だ!と思いました。
でも、それと同時に「たったそれだけのことで今まで培って来たものを捨ててしまうのか」とも思ったんですね。
腹を決めてからの私は次男に対しての受け入れもストンと決まり、それからは1人で協力者を求めて奔走して来ました。
その時も役場には幾度となく相談をして来ましたが役場は取り合ってくれず、動いてくれたのは民間団体と病院でした。
なので私の言い分としては大変だった時期、言わば一歩間違えば心中しかねない時期に相談していたにも関わらず取り合わなくて第三者である民間団体などから現状を漏れ聞いて慌てだしたところで今更、なのですよ。
しかも、やろうとしてることが子供達を取り上げること、笑えます。
今は本当に大変だった時期が嘘のように穏やかな安定した日々を送っています。
ハンデの子供達には福祉ケアが付き私も1人になれる時間を頂けるようになり自身の治療にも専念出来ています。
健常の子供達も民間団体に通えるようになったので子供達にも息抜きの時間が出来るようになりました。
親が障害があっても子供に障害があっても本当に福祉ケアやサポートがあれば社会で生きていけるのです。
それを一部分だけ切り取って「無理だ」と決めつけ排除するのは差別でしかないと思っています。
なので徹底的に戦おうと思い立ったのです。
私達親子は、ただ共に生きていきたいだけです。
親子で見る景色、感じる思い等々は親子だからこそ得られる物で誰かが欠けていては得られないものです。
私はサバイバー(虐待の生き残り)として、そのことを身を持って分かっています。
大人になってから取り戻そうとしても取り戻すことの出来ない感情を、思いを、私は自分の子供達にまで味わわせたくはありません。
だから自分が、こんな病になっても子供達にハンデが見付かっても諦めないで生きて来れたのです。
その思いを汲み取ってほしい。
そして少しでも悲しい思いをする親子が減らせるように。
そう思っています。